2009年06月29日

経済学におけるイデオロギー終焉論

さらに冷戦終結後、国際経済における資本主義の影響力が完全なものとなったため、意識的に資本主義の根本システムを改変することは事実上不可能なものとなっており、無条件で受け入れざるを得ないものとなっている。全ての経済・社会上の問題は資本主義的全体の一問題とされ、イデオロギーを介在させずに技術的に解決可能とされる。たとえば南北格差問題や紛争問題を経済上の利害に還元し、市場経済の範囲内でさまざまな調整をすることによって解決可能だとする見方である。この立場では資本主義的経済原理をすべての人が受け入れている以上、イデオロギー闘争のような根本的な思想対立はありえないと主張された。

しかし民族的な問題や宗教的な問題がしばしば国際紛争に発展することを見ても明らかなように、たとえ資本主義の原則を全ての人が認めたとしてもイデオロギー対立は存在しうる。イデオロギーの根本は信条や信念、あるいは党派的利害であって、経済原理や社会問題から出発してその思想を形成するのではない。
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最後に現代のような価値の多様化を認めている時代状況においてはイデオロギーは相対的に合理化して眺めることが可能で、政治的正当性の根拠は不毛な観念論争ではなく現実生活に即した実利にあるという主張がある。現代の知識人は自己のイデオロギーを諧謔的に意識化することで偽りの信念を見抜くことができ、それが行動に結びつくことはないと説かれた。

これに対しては主に二つの観点から誤りを指摘することが出来る。まずイデオロギーは語られていることだけにあるのではなく、行動や社会状況にも含まれている。つまりイデオロギーは人々がどう考えるかという問題ではなく、現にある社会状況に刷り込まれ事実関係を偽っていることがあり、イデオロギー的信条を実際は信奉していないのにもかかわらず、イデオロギーに奉仕していることがある。たとえばある種のイデオロギーを掲げた政策にそのイデオロギー性を認識しつつも実利を優先して迎合することはイデオロギー的目的に奉仕していることであり、イデオロギーから自由になっているとは言えない。また実利を最優先するこのような考え方それ自体がイデオロギー的である。実利や観念、社会状況、経済原理などはそれぞれ別次元の問題である。

2009年06月11日

パニック障害(パニックしょうがい)は、強い不安感を

パニック障害(パニックしょうがい)は、強い不安感を主な症状とする精神疾患のひとつ。パニックディスオーダー(panic disorder)とも呼ばれる。従来、不安神経症と呼ばれていた疾患の一部である(不安神経症の方が広い疾患概念であり、不安神経症と呼ばれていたものの全てがパニック障害には当たらない)。panic disorder からPDと略記される場合もある。かつては全般性不安障害とともに不安神経症と呼ばれていたが、1980年に米国精神医学会が提出したDSM-IIIで診断分類の1つに認められ、1992年には世界保健機関 (WHO) の国際疾病分類(ICD-10)によって独立した病名として登録された。
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定型的なパニック障害は、突然生じる「パニック発作」によって始まる。続いてその発作が再発するのではないかと恐れる「予期不安」とそれに伴う症状の慢性化が生じる。さらに長期化するにつれて、症状が生じた時に逃れられない場面を回避して、生活範囲を限定する「広場恐怖症」が生じてくる。

パニック発作 [編集]
パニック障害患者の多くは、日常生活にストレスを溜め込みやすい環境で暮らしている人がなりやすく、発作は、満員電車などの人が混雑している閉鎖的狭い空間、車道や広場などを歩行中に突然、強いストレスを覚え、動悸、息切れ、めまいなどの自律神経症状と空間認知(空間等の情報を収集する力)による強い不安感に襲われる。症状や度合は、患者によって様々だが軽度と重度症状がある。しかし軽・重度患者ともに発作が表れる時に感じる心理的(空間認知など)印象としては、同じような傾向が見られ、漠然とした不安と空間の圧迫感や動悸、呼吸困難等でパニックに陥り、「倒れて死ぬのでは、ないか?」などの恐怖感を覚える人は少なくない。先に挙げた自律神経症状以外にも手足のしびれやけいれん、吐き気、胸部圧迫のような息苦しさなどがある。患者は、これらの症状に非常に困惑し、回避しようと行動に移そうとするが、かえって逆効果となりその場から動くことができず、うずくまったまま(気絶してしまうこともある)救急搬送・受診をすることも多い。しかも、これらの症状は、特別な処置がなくとも、しばらく安静に過ごしていれば多くは1時間以内に、長くとも数時間のうちに回復する。これが「パニック発作」である。

無意識身体拒絶反応 [編集]
精神的な症状でなく体が思う通りに動けない状態になることがある。これはイップスと言い、スポーツ選手に発生しやすい症状である[要出典]。

予期不安 [編集]
患者は、パニック発作に非常に強烈な恐怖を感じる。このため、発作が発生した場面を非常に恐れ、またあの恐ろしい発作が起きるのではないかと、不安を募らせていく。これを「予期不安」という。そして、患者は神経質となり、いつも身体の状態を観察するようになる。そして、持続的に自律神経症状が生じることとなり、パニック発作が繰り返し生じるようになっていく。

広場恐怖 [編集]
パニック発作の反復とともに、患者は発作が起きた場合にその場から逃れられないと思われる状況を回避するようになる。回避される状況としては、電車や飛行機、歯科、理・美容室、レジを待っている時、道路の渋滞など、一定時間特定の場所に拘束されてしまう環境や、ショッピングモールなど人込みの中などがある(他にも、人によって広場恐怖の種類は様々である)。さらに不安が強まると、患者は家にこもりがちになったり、一人で外出できなくなることもある。このような症状を「広場恐怖(アゴラフォビア)」という。広場恐怖の進展とともに、患者の生活の障害は強まり、社会的役割を果たせなくなっていく。そして、この社会的機能障害やそれに伴う周囲との葛藤が、患者のストレスとなり、症状の慢性化をさらに推進していくこととなる。

2009年06月07日

戦後しばらくはダットサン・フェアレディ、ホンダ・S600

日本では、戦後しばらくはダットサン・フェアレディ、ホンダ・S600、トヨタ・スポーツ800など、少数を除き、本格的なスポーツカーは作られていなかった。1980年代に入ると、多くのメーカーでスポーツカー像を模索し始め、開発も盛んに行われた。1990年代までは人気が高かったが、現在、日本国内での人気は低下している。

そもそも、スポーツカー(スポーティカーも含む)は、運動性能やデザインを優先して作っているため、積載能力や居住性、燃費などが犠牲になっていることから実用性が低く、趣味性が高い自動車であるといえる。 そのため、日本車のスポーツカーは、バブル景気が崩壊した後の景気の冷え込みや、平成12年度排気ガス規制をきっかけとして多数のモデルが人気不振に陥り、製造を中断し、後継車種も無くモデル消滅となった。
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ユーザーの嗜好は常に変化しやすく、近年では自動車に万能性を求め、主に積載能力やその他実用性の高いミニバンやコンパクトカー(ハッチバックやトールワゴン)に人気の中心が移行している。加えて2004年あたりから顕著になっている世界的な原油高によるガソリン価格の上昇で、経済的な軽自動車やコンパクトカーを買う動きも強く、さらには主なターゲットである若年層の雇用不安定化(就職氷河期を参照)などが原因で発生した車離れによる需要の冷え込みもある。

そして、スポーツカー市場の縮小は、折からの若年層のクルマ離れを助長するという結果をも招いている。そのため、現在各メーカーで若年層をターゲットとした低価格スポーツカー(スポーティーカー)の開発が進められている。また、2007年東京モーターショーに出展された本田技研工業のスポーツ性能と環境性能を両立したハイブリッドスポーツカーCR-Zや日産自動車出展のスポーツカー並みの性能とコンパクトカーのような広いキャビンを持つ「ラウンドボックス」のように各メーカーで未来のスポーツカー像が模索されている。

2009年04月24日

マーロン・ブランドとレッド・パワー運動

ハリウッド俳優のマーロン・ブランドは、AIM創設当時からこれを支援し、金銭的にも政治的にも援助したアメリカ人の一人である。ブランドは高額な映画出演報酬を要求することで有名だったが、これをインディアン権利団体の運営資金に提供することも多かった。また、「フィッシュ・イン抗議行動」など、様々な抗議運動でも行動をともにした。

最も影響が大きかったのは、1972年の「マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件」であろう。これは出演した映画『ゴッドファーザー』でのアカデミー主演男優賞の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせたというものである。ハリウッドでの、白人がでたらめなインディアンを演じてきたことを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じた。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画の「西部劇」から単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになり、事実上「西部劇」というジャンルを壊滅させてしまった。

「ブライアン対イタスカ郡」裁判
このレッドパワーの高まりの中で起こった「ブライアン対イタスカ郡(Bryan v. Itasca County)」と呼ばれる法廷闘争は、以後のインディアンの権利に関して画期的な法的判断を引き出したことで歴史的評価を受けている。

1971年、ミネソタのリーチ保留地に住むオジブワ族のブライアン兄弟は、火災で家を無くしたため、移動型の住居を購入したが、間もなくイタスカ郡は彼らの住居に資産税として147.95ドルを請求した。しかしブライアン兄弟は、この住居が自治権を持ったインディアン保留地内にあることから納税の義務がないことを主張。これを受けて郡はミネソタ最高裁判所にブライアン兄弟の主張の無効を訴え、ブライアン兄弟側は保留地を挙げて控訴した。やがてこの件は合衆国最高裁判所に上告された。

1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。

ニクソン政権とレッド・パワー運動
リチャード・ニクソンは、こうしたインディアン達の権利回復要求交渉に対し、まともに耳を傾け取り組んだ、それまでに例を見ない大統領だった。「レッド・パワー運動」とニクソン大統領とは切り離して語れない。ニクソンは1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めている。ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で失脚したことは、世評はどうあれ「インディアンという民族」にとっては大きな痛手だった。

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1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。

この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。

2009年04月06日

ジャネット・ジャクソン

ジャネット・ジャクソン(Janet Damita Jo Jackson, 1966年5月16日 - )は、1980年代以降に商業的に大成功を収めたアメリカ合衆国のアフリカン・アメリカンのシンガーソングライター、女優。兄の一人はマイケル・ジャクソン。安室奈美恵、AI、Crystal Kay、DOUBLEなど日本のR&Bアーティストにも大きな影響を与えている。日本での愛称はジャネット、ジャネジャク。

出生・幼少期 [編集]
ジャネットはアメリカ合衆国インディアナ州の町・ゲーリーでジョセフ・ジャクソンとキャサリン・ジャクソンの娘として生まれる。彼女の生まれたジャクソン一家は有名で、マイケル・ジャクソンを含むジャクソン・ファイヴのメンバーは実兄である。9人兄弟の末子。太りやすい体質であり少女時代は「ロバ」とからかわれていた。

7歳から演技の舞台に立ち、アメリカのテレビドラマを中心にまずまずの活躍をする。

1980年代 [編集]
兄弟とのデュエット曲やバックボーカルとしてのキャリアはあったものの、本格的にシンガーソングライターの道を歩み始めたのは1982年、彼女が16歳のときである。A&Mレコードからファーストアルバムとなる『ヤング・ラブ』をリリースするが、商業的には不発であった。しかしそのアルバムからシングルカットされた楽曲「ヤング・ラブ(Young Love)」と「ギブ・ユア・ラブ・トゥ・ミー(Come Give Your Love To Me)」がヒット。前者はR&Bチャートの6位に届いた。続いてリリースされた「セイ・ユー・ドゥ(Say You Do)」もまた15位と健闘した。

1984年、セカンドアルバムとなる『ドリーム・ストリート』を発表。兄のマーロン(Marlon)から提供された、これまでよりもファンキーでアップテンポな楽曲でその音楽性に進展が見られたものの、商業的には不成功に終わった。

同年、歌手ジェイムズ・デバージ(James Debarge)と結婚したが、わずかな期間で離婚。

1年後の1985年、日本企業とのタイアップで日本でのみ発売するための楽曲「Start Anew」を収録している。

ジャネットは次期アルバム制作のため、ジミー・ジャムとテリー・ルイスの下へ。1986年、これにより完成したサードアルバム『コントロール』を発表。ポップスチャートとR&Bチャートで1位を獲得。アルバム収録曲全9曲のうち6曲までもがシングルカットされ、そのうち5曲はポップスチャートで連続して5位以内に入った。中でも最もヒットしたのが「あなたを想うとき(When I Think Of You)」で、ビルボードシングルチャートにて初の1位を獲得。これ以後彼女の知名度は飛躍的に高まった。本人が「実質的な、私のファーストアルバム」と語っている位、思い入れの強いアルバムである。実際にコンサート等では、このアルバム以前の曲は一切演奏されない。また1996年に発売されたベストアルバム『デザイン・オブ・ア・ディケイド / グレイテスト・ヒッツ』(decade = 10年間)でも1986年より前は無視されている。

以来20年にわたってジャム&ルイスとのタッグは続き、他のプロデューサーと楽曲を制作することは少なかった。

次のアルバムとなる『リズム・ネイション 1814』がリリースされたのは1989年になってである。人種差別・性差別やホームレス、薬物などなどの政治問題を積極的に取り入れた本作品はポップスとR&Bのチャートで1位を獲得した。

表題曲「リズム・ネイション(Rhythm Nation)」のビデオ・クリップは兄マイケルの影響が見られるものの、完成度の高いダンスで構成され、彼女のスタイルを確立するとともに、音楽シーンに多大な影響を与えた。ライブでは激しいダンスのため、リップシンクでパフォーマンスされることが多い。この曲は日本航空でジャネット本人が出演するテレビCMにも使用された。

1990年の初来日公演では、東京ドームでの最高観客動員を記録した。これにより、Rhythm Nation Tourでは2度の来日公演(5月と11月)が実現した。

1990年代 [編集]
1993年のアルバム『ジャネット(janet.)』からヴァージン・レコードに移籍。シングル『それが愛というものだから(That's The Way Love Goes)』が自身最高のビルボード8週連続1位を記録。このアルバムではセクシーな表現が一層目立つようになり、マドンナと比較されることがある。同年『ポエティック・ジャスティス/愛するということ』(2パックと共演)で映画初出演。ゴールデンラズベリー賞最低新人俳優賞受賞。

兄マイケルとの仲の良さは有名で、1993年に少年への性的虐待疑惑でメディアが過熱した際は、無実を祈ってワールドツアー(janet. World Tour)のステージ上で黙祷を捧げた。

1995年にはマイケルとのデュエット曲「スクリーム(Scream)」を発表。この曲はマイケルのアルバムに収録されたにもかかわらず、ジャム&ルイスなどジャネット側の制作陣が手がけ、人気・実力ともに兄を逆転したと言われた。

1997年、アルバム『ザ・ヴェルヴェット・ロープ(The Velvet Rope)』を発表。これ以降は姓を略した「JANET」名義で作品をリリースする場合がある。同性愛やSMやドメスティック・バイオレンスなど様々なテーマを取り上げ、セールス的には前作『ジャネット(janet.)』を下回ったものの、ファンの間では評価の高い作品となった。

1999年、長年にわたるボーイフレンドのレネ・エリゾンドと密かに結婚、そして離婚していたことを公表しファンを驚かせた。

2000年代 [編集]
2000年、エディ・マーフィー主演映画『ナッティー・プロフェッサー2』のヒロイン役で成功を収めた。その主題歌「ダズント・リアリー・マター(Doesn't Really Matter)」もヒット(島谷ひとみのヒット曲「パピヨン〜papillon〜」の原曲)。日本のオリコンでは、自身最大のヒットシングルとなり、同年のオリコン洋楽シングルチャートの年間1位を記録した。

2001年のアルバム『オール・フォー・ユー』は過去の作品に比べるとポップな内容が受け、日本では80万枚を超える自身最大のヒットとなった。

2004年2月、国民的ショーである第38回スーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びる。当初はハプニングを装っていたが、意図的な演出だったことを告白。生中継したテレビ局が罰金処分を受けたり、直後のグラミー賞やアカデミー賞の中継でハプニング防止策が取られるなど波紋は大きかった。

同年3月発表されたアルバム『ダミタ・ジョー』は、これまで以上に性的表現が目立っている。事件の影響からか、『コントロール』以降では初めて商業的に失敗した作品となった。

2006年初頭には体重が増え、次のアルバムは大丈夫かと不安がる人もいたが、4ヶ月で27キロ減らし55キロまで体重を落とし、6月5日に米国で発売された雑誌「US Weekly」ではそのダイエットの詳細を掲載した。なお体重増は映画出演のための役作りであったとされるが、結局映画出演は立ち消えになったため真相は不明。

同年9月、アルバム『20 Y.O.』(トゥエンティ・イヤーズ・オールド)を発売。ジャム&ルイスとの共同制作が20年を迎える記念碑的作品となった。過去のヒット曲のテイストを織り込んで制作したとされるが、恋人である著名プロデューサーのジャーメイン・デュプリの参加によりジャム&ルイス色が薄らぎ、旧来のファンからはあまり高い評価を受けなかった。前作の失敗からの復活を目指す作品でもあったが、セールス面では前作を大きく下回る結果となった。

2007年、ヴァージン・レコードとの契約を更新せず、同じくヴァージンを去ったジャーメイン・デュプリを追いかける形でアイランド・レコード(ユニヴァーサル・ミュージック・グループ)に移籍した。

2007年10月に米国で公開された映画『Why Did I Get Married?』に主役級で出演している。

2008年2月、アルバム『Discipline(ディシプリン)』を発売。『コントロール』以降で初めてジャム&ルイスが参加しておらず、またジャネット自身は作詞・作曲に一切関わっていない異例なスタイルで制作された。ビルボードHOT200では『オール・フォー・ユー』以来の1位を獲得したものの、セールスの減少は止められなかった。1stシングル『Feedback』はビルボードHOT100で最高19位。しかし、他のシングルカットはビルボードHOT100にランクインせず。

レーベルが数ヶ月でプロモーションを放棄したことをジャネットは非難し、わずか1年・1作品のみでアイランドとの契約を終えたことが9月に明らかになった。新しい所属レーベルは決まっていない。
2008年9・10月に7年ぶりのツアー『Rock Witchu Tour』を米国とカナダのみで開催。評価は高かったものの規模が小さく商業的には不振に終わっている。また体調不良により幾つかの公演をキャンセルした。2009年2月に日本でも5公演が予定されたものの、1月下旬に「金融危機の影響」として延期を発表した。

全米No.1獲得曲 [編集]
アメリカ「ビルボード」誌に準拠。

ビルボード HOT100チャート [編集]
When I Think Of You (1986年、2週連続)
Miss You Much (1989年、4週連続)
Escapade (1990年、3週連続)
Black Cat (1990年)
Love Will Never Do (Without You) (1991年)
That's The Way Love Goes (1993年、8週連続)
Again (1993年、2週連続)
Together Again (1998年、2週連続)
Doesn't Really Matter (2000年、3週連続)
All For You (2001年、7週連続)

ビルボード R&Bチャート [編集]
What Have You Done For Me Lately (1986年)
Nasty (1986年)
Control (1987年)
Let's Wait A While (1987年)
Diamond (Herb Alpert featuring Janet Jackson、1987年)
Pleasure Plinciple (1987年)
Miss You Much (1989年)
Rhythm Nation (1990年)
Escapade (1990年)
The Best Things In Life Are Free (Luther Vandross & Janet Jackson、1992年)
That's The Way Love Goes (1993年)
Any Time,Any Place (1994年)
I Get Lonely (1998年)
What's It Gonna Be?! (Busta Rhymes featuring Janet Jackson、1999年)
All For You (2001年)
Call On Me (2006年)

アルバム [編集]

オリジナルアルバム [編集]
ヤング・ラブ - Janet Jackson (1982年)
ドリーム・ストリート - Dream Street (1984年)
コントロール - Control (1986年)
リズム・ネイション 1814 - Janet Jackson's Rhythm Nation 1814 (1989年)
ジャネット - janet. (1993年)
ザ・ベルベット・ロープ - The Velvet Rope (1997年)
オール・フォー・ユー - All For You (2001年)
ダミタ・ジョー - Damita Jo (2004年)
トゥエンティ・イヤーズ・オールド - 20 Y.O. (2006年)
ディシプリン - Discipline(2008年)

その他のアルバム [編集]
モア・コントロール - Control: The Remixes (1987年、リミックスアルバム)
ジャネット・リミキシッド - janet. Remixed (1994年、リミックスアルバム)
デザイン・オブ・ア・ディケイド/グレイテスト・ヒッツ - Design Of A Decade (1996年、ベストアルバム)

ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル

2009年03月22日

鉄道模型の制御方式

メルクリンやライオネルに代表される方式で、中央三線式を採用しているが、交流方式であることは必ずしも三線式であることを意味するわけではなく、少数ながら交流二線式の鉄道模型も存在する。1930年代には効率のよい整流器や強力な永久磁石が民生用にはなかったので、直巻電動機と電磁石による方向転換装置との組み合わせが採用された。 最近電子工学の進歩に伴い、多重制御方式(後述)を好む人が増えてきたため、交流とは言えども正弦波ではない交流駆動の模型が増えている。


直流方式
直流を得るには蓄電池あるいは小型の整流器を必要とした。自動車産業の発達したアメリカでは、セレン整流器が民生用として市販され始めたので、これを流用してDC12Vという規格が成立した。通常は左右のレールのみから集電する直流二線式が用いられるが、少数ながら直流三線式の鉄道模型も存在する。具体的にはトリックス製品では、直流二線式の「トリックス・インターナショナル」に対して、直流三線式の「トリックス・エクスプレス」が存在する。

直流方式の利点は、機械的な逆転装置なくして自由に前進後退を選べることであった。交流方式の直巻電動機の界磁を車載整流器で一定方向磁界とすれば(これをpolarizedという)手元のスイッチひとつで進行方向を切り替えることができた。第二次世界大戦後は永久磁石の界磁となり、これは分巻電動機の一種であって模型機関車の駆動用電動機として最も適するとは言えないが、広く用いられるようになった。機械工学に通じる鉄道模型人は現在でも直巻電動機を好む。その理由は二つあり、

機関車などの動力車の起動時には電流の二乗に比例してトルクが発生し、実物の発車状況を再現しやすいこと。また、巡航時には電流値が減少し、登り坂では回転が落ちて電流値が上昇し牽引力が増すこと。
永久磁石による界磁を持つモータでは、磁石が電機子を吸引することにより、車輪を廻した時ギヤを介してモーターが回転しない。すなわち、電源を切った瞬間に動力車は急停止する。すなわち、実物の鉄道車両が惰行する様子を再現できない。(通常のウォームギアを介して伝動する場合はモーターの電力供給が停止した時点で急停止する。)
である。現在のもっとも進んだ駆動方式では電子制御でモータの回転数を実物を模した加減速曲線で駆動し、Bemf(逆起電力)を測定して回転数を一定に保つ方式をとっている。また、永久磁石に吸着されない無鉄心型モーター(コアレスモーター)を採用し、特殊なウォームギヤとの組み合わせで押して動く(free-rolling mechanism)動力車が実用化されている。

12vという電圧は上述のように自動車産業から派生したものであったが、線路が長くなると電気抵抗が無視できなくなり、電流値を減らして電圧降下を小さくすることができる高電圧化の論議が1980年代に始まった。24v化という動きもあったが効率のよいモータの採用とともにその声は聞こえなくなった。Oゲージ、Gゲージの世界ではレイアウトの規模が大きいので、人により16?18vを採用することもある。

多重制御方式 [編集]
同一の線路上の複数の車両を個別に制御する方式の総称。車両の運転のみならず、警笛、前照灯の点滅などもこの概念に含まれる。古くは交流を混ぜて流し周波数によって識別する方式(ライオネルのアストラック)や交流と直流を同時に流す方式などがあったが、アナログ方式ではせいぜい数台が限度であった。 現在ではデジタルコマンドコントロール(DCC)が世界的な標準になり、欧米ではDCCが搭載された車両を発売するのが標準となっている。DCCでは理論上、同時に1024台に指令を出すことができる(8bit)。

鉄道模型の駆動方式 [編集]
鉄道模型発祥の頃は、当然手で押すものであった。時代の進歩とともに、ぜんまい駆動であったり、蒸気による自力走行できるものになったりし、最終的に電気による外部からのコントロールが可能になった。

それは、乗ってコントロールする必要があったり、あるいは動き始めたら放置せねばならない蒸気駆動より、室内で楽しめるより小さな電動模型への進化であった。もちろん蒸気駆動はライヴスティームとして特化した進化をしたが、電動模型はより小さなサイズへと向かった。

蒸気によるもの [編集]
当初は簡易なボイラーと単動首振りエンジンとの組み合わせの、動き出したら水または燃料がなくなるまで走り続ける物が多かった。そのうちに実物と全く同等なつくりで、人間をのせた車両を牽いて走る模型が主流となった。これは給水、焚火、運転が実物どおりでタービン発電機やインジェクタまで装備するものが現れた。また米国で実用化された関節式機関車を、実物どおりのボールジョイントの給排気管で結ぶ模型も出現している。また、蒸気タービンで発電して電動モータで走る模型も試作されている。

手軽に運転できる電動式模型の普及により一時期廃れていたが、1970年代半ば頃から一部の熱心な愛好家と彼らに支えられた新たな生産者の参入により以前に比べより敷居が低くなってきている。また、近年、各地で愛好家が集う運転会が開かれ、徐々に愛好家が増えつつある。 海外のメルクリン等のメーカーも新製品を出しつつある。電子工学の進歩により、小型模型をラジオ・コントロールすることが可能になり、一番ゲージでは多くの人たちが楽しむようになった。また、16番ゲージでは近年、英国のホーンビィから電熱蒸気機関車も可能になり、外部から汽笛吹鳴までコントロールできる完成品も発売されている。 現在はライブスチームと呼ばれる、庭園鉄道の一分野として楽しまれている。

電気モータによるもの [編集]
電動模型は、家庭への配電と同時に始まった。当時の電池は高価で性能が悪かったからである。

当初採用されていた蒸気あるいはぜんまい式の2線式軌道に集電用の第三軌条を付け加えることにより電動化が実現された。2線式を採用するには車輪を絶縁しなければならないので、それまでに売った車両の改造をしなければならなかったが、実物に習い中央の第三軌条から集電すればそれまでの製品との不整合がなくなる。日本では実物に中央三線式の鉄道が存在しなかったため、このタイプの集電方式は玩具的であると嫌われたが、逆に欧米では本物と同じであるとして受け入れられてきた。

当初は直巻電動機を自作し変圧器または抵抗器で制御していた。抵抗器は食塩水を用いたものもあった。小型の電動機が模型用として発売されるようになると、それを納める動力車の大きさが決まってしまう。すなわち模型のサイズの小型化はモータのサイズの小型化の歴史であった。 界磁コイルを軸の延長上に移したり、両軸モータを作り車軸間に納めたり、この時期の工夫はめざましい。 直巻電動機は、実物同様、機関車、電車の駆動には適する特性を持っていた。起動時に電流の2乗に比例して起動トルクが発生し、回転が上がると同時に電流が減少する。速度に応じて徐々に電圧を上げれば実感的な運転ができるわけである。 しかし、逆転には界磁の極性を反転させねばならなかった。ライオネル、メルクリンらは、電流を瞬間的に遮断する事により作動する逆転リレーなどを開発し市販した。しかし分岐機を通過する際、誤動作する事があり、モータの回転による遠心力を用いた誤動作防止装置が一部の愛好家によって開発された。

1930年代になると、直流駆動への試みが始まる。米国ではモータリゼイションにより自動車用の小型の整流器が民生用として発売されたのを受け、界磁電流を整流して走行電流の極性を反転して逆行させる工夫がなされた。また電圧は自動車の12Vを標準電圧として採用した。また、40年代になると永久磁石を界磁にしたマグネット・モータが市販されるようになった。これは、小型軽量で消費電力も少なかったが、分巻特性を持ち、与えられた電圧と回転数が正比例するものであった。すると、抵抗による電流制御よりも電子機器による電圧制御によるコントロールが望ましくなる。これはトランジスタ・コントローラの発達を促し、レオスタットを駆逐した。 マグネット・モータは、停止時に界磁が電機子を吸着して動きにくくするコッギング(英語ではteethingという)が避けられず、機関車は手で押して動かすことは不可能であった。マグネット・モータの軸を手で廻すとあたかもサイコロを転がすごとく、特定の位置で引っかかりを感じるが、直巻電動機を採用していたライオネル、メルクリンの機関車は、レールに手で押し付けて押せばモータが回転する。 また、最近ではコッギングが無くスムーズな走行でより大きなトルクが出せるコアレス・モータやコッギングはあるが、より大きなトルクが出せるブラシレスモータも普及しつつある。

モータから車輪までの動力伝達にはウォームギヤが多用される。スパーギヤ、ベベルギヤの使用は少ないが、一部高級機種ではコースティング・ギヤの使用も認められる。それは前者では一段で大きなギヤ比を実現でき、また、モータ軸と駆動軸が直交するのがモータの配置上大変便利な位置関係だからである。しかし通常のウォームギヤは逆駆動ができない。つまり、動力車を押してモータが廻るということがありえないと信じられてきた。したがって、特殊なクラッチを用いて歯車の自動切り離しをする工夫が現れたが、いずれも一過性のもので、製品に反映される性格のものではなかった。一方、コースティング・ギヤを使用した機種ではこの問題が解決されている。

マグネット・モータの一種のコアレス・モータは鉄心を持たないムービング・コイル型モータでそれをスパーギヤで減速すると押して動く動力車ができる。しかし限られた空間に収められるギヤはギヤ比が1:4程度のものであり、あまりにも牽引力が小さく、最高速が大きすぎるものであった。 1985年、コアレス・モータと逆駆動可能な3条ウォームギヤと、スラスト・ボール・ベアリングを組み合わせた適当なギヤ比を持つ蒸気機関車用駆動装置が開発され、高効率と静粛性を併せ持つ動力車の実現が可能になった。この駆動装置は開発者が特許を取らず開放したため多くのメーカーにより採用され、コースティング・ギヤ(Coasting Gear)として高性能機関車に装備され市販されている。
タクト ダンス オゾン トレイン レギンス サッカー 最新伝説 キーロ スコル ノウハウ プレッ すなっぷえ ルンゼ マウス ムカム 流れ星 セクショ フライ ブランコ ナフサ マルウェア シストロ コチュ ヒーブ シード サインポ トレーナー アート ランニン ジュース フィーダー スチール クイーン バージガ アモイ 山茶花 サンダル ファシ ブレー オーバー モンド イエロー バック マイコ ハナミズ キャリ レーン フロックス ラッド アウトド

これらの電動模型は同一線路上ではすべての動力車が同一の動きをするが、それでは不満足な愛好者は多重制御方式へと向かい、それはDCCとして実現された。

2009年03月06日

サラトガ (CV-60)

サラトガ(USS Saratoga, CVB/CVA/CV-60)は、アメリカ海軍の航空母艦。フォレスタル級航空母艦の二番艦。アメリカ独立戦争におけるサラトガの戦いに因んで命名され、同名を持つ艦としては六隻目である。

1950年代
サラトガは「大型航空母艦」として1952年7月23日にニューヨーク州のニューヨーク海軍造船所に発注され、船体番号はCVB-60であった。1952年10月1日に「攻撃航空母艦」(CVA-60)に艦種変更され、1952年12月16日に起工された。1955年10月8日にチャールズ・S・トーマス夫人によって進水し、1956年4月14日に初代艦長R・J・ストロー大佐の指揮下就役した。

就役後数ヶ月にわたってサラトガは飛行、操艦、構造および砲撃とさまざまなテストを行い、8月18日にグアンタナモ湾に向かい整調巡航へ出発する。12月19日にニューヨーク海軍造船所のドックに再び入り、1957年2月18日まで調整を行う。調整後カリブ海で訓練を行い、その後母港のフロリダ州メイポートに向かう。

6月6日にアイゼンハワー大統領と閣僚が乗艦し訓練を視察する。二日にわたってサラトガと僚艦18隻が航空作戦、対潜水艦戦、誘導ミサイル作戦および海軍最新の砲撃、掃射技術を実証した。大統領視察のハイライトは、西海岸沖のボノム・リシャール(USS Bon Homme Richard, CVA-31)から大西洋のサラトガまで二機の F-8U クルセイダーが3時間28分で無停止飛行を行う実験であった。

サラトガは1957年9月3日にメイポートを出港し初の大西洋横断を行い、ノルウェー海でNATOの軍事演習、オペレーション・ストライクバックに参加する。その後メイポートで短期間停泊した後、修理のためノーフォーク海軍造船所に向かう。

1958年2月1日に地中海に向けてメイポートを出港、最初の第六艦隊配備となる。1967年12月31日まで地中海へ8度の巡航を行い、地中海以外ではフロリダ沖で訓練または港での補修を行った。

1960年代
第六艦隊で展開中の1961年1月23日に第二機械室で火災が発生し、7名が死亡する。燃料油パイプの破裂で生じたと考えられる火災は乗組員により鎮火し、サラトガはギリシャのアテネで損傷を調査した。蒸気タービンの出力は低下したものの巡航任務を継続し、帰国すると艦載機部隊を下艦させその後修理を行った。

1968年1月2日にサラトガはペンシルバニア州フィラデルフィアに向かいオーバーホールと近代化改修に入る。作業は11ヶ月にわたって行われ、1969年1月31日にフィラデルフィアを出港、ハンプトン・ローズとメイポート経由でグアンタナモに向かい、乗組員及び航空要員の訓練を行った。

1970年代
1980年代 - 1990年代
1992年秋、アメリカ合衆国、トルコを始めとするNATO加盟国は演習「エクササイズ・ディスプレイ・デタミネーション 1992 」を行う。同演習はアメリカ軍のジェレミー・マイケル・ブーダ提督を総司令官として各国海軍が参加して行われた。各国海軍は二つのチームに分かれ、アメリカ海軍のT・ジョーゼフ・ロペス海軍中将が「Brown Forces」を指揮し、それにはサラトガも含まれた。トルコ海軍の機雷敷設駆逐艦ムアヴェネト(TCG Muavenet)(元ロバート・H・スミス級駆逐艦グイン(USS Gwin, DM-33))はオランダ海軍のクルーン提督指揮する「Green Forces」に属していた。
チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

同訓練演習に於いて「戦術上の増強」過程にブラウン軍はエーゲ海のサロス湾への上陸を試みる。ブーダ提督は各ユニットが積極的に探索し互いを「破壊する」よう命令した。両軍の機動部隊司令官には勝利を達成するため全ての戦力を使用する最大の権限があった。言うまでもなく全ての対立は演習上の攻撃であることが目的であった。

1992年10月1日、サラトガに乗艦していた戦闘指揮センター士官はシースパロー・ミサイルシステムを用いてグリーン軍への攻撃を開始することを決定した。戦闘指揮センター士官はサラトガの部隊指揮官及び戦闘グループ指揮官のフィリップ・デュアー少将の承認を得た後にシミュレーションの攻撃計画を実施した。ミサイル発射班員はその指令がシミュレーションであることを知らされなかった。

指令が進行し、ミサイルシステム・オペレーターはミサイル発射準備が完了したことを報告した。しかし標準的な用語が欠如していたため確認した士官はその報告の重要性を認識できなかった。具体的には目標捕捉システム・オペレーターは指令「arm and tune」(コンソール・オペレーターにとって実際の発射に備えてミサイルを装填、準備する指令)を出した。指令監督士官は「arm and tune」が実際の発射を示すことを理解できなかった。その結果、10月2日の午前0時直後にサラトガはムアヴェネトに対して二発のシースパロー・ミサイルを発射した。ミサイルはムアヴェネトの艦橋を直撃し戦闘情報司令室を破壊、艦の士官多数を死傷させた。

サラトガは1994年8月20日にフロリダ州メイポートの海軍補給地で解役され、同日除籍された。1995年5月にフィラデルフィアまで回航され、フィラデルフィア海軍保管所で1998年8月に不活性化され、ロードアイランド州ニューポートの寄贈艦保管所に保管された。続いて「実験用船として処分」が決定されたが、最終的に2000年1月1日に寄贈艦保管所に戻された。

2009年02月17日

ヨスガノソラ

両親を突然の交通事故で亡くし、双子の妹・穹と二人きりになった春日野 悠は、都市部から離れた山里にある奥木染町(おくこそめちょう)に移り、父親の実家であり、かつてその地で医者を営んでいた亡き祖父の家で兄妹二人の生活を始める。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト

以前に遊びに訪れた際に知り合った依媛 奈緒・天女目 瑛との再会、新たな友人達との出会い、そして手の掛かる妹との生活。穏やかな時間の中で、やがて悠は自分の本当に大切な存在に気付いていくが……。

春日野 悠(かすがの はるか)
声:なし
身長:170cm 血液型:O 誕生日:2月5日
本作の主人公。両親が不慮の交通事故により他界したため,双子の妹である穹と一緒に奥木染町へ引っ越す。近所に住んでいる奈緒に助けてもらいながら穹と共に住む。
都会育ちの美少年という顔立ち。お人好しであり、一人で物事を抱え込むところがある。
家事全般を苦手とし、穹も何もしないため家では四苦八苦している。
祖父は町医者、祖母は産婆。二人で「春日野医院」という医院を営んでいた。二人とも地元での信頼は厚く、悠もその恩恵を受けることがある。両親はインテリアショップを営んでいた。
天女目 瑛(あまつめ あきら)
声:月城真菜
身長:153cm 血液型:A 誕生日:8月3日
悠のクラスメート。悠と昔一緒に遊んだことのある神社の娘。悠のことは「ハルくん」と呼ぶ。
温厚で何を考えているか分からないが、いつもニコニコしている。人懐っこく、一葉のことは「カズちゃん」、亮平のことは「亮兄ちゃん」と呼ぶ。
現在は巫女と神社の管理人を兼任していることから、神社で一人暮らしである。そのため、巫女服でいることも多い。神主だった祖父が2年前に亡くなった後は、やひろが保護者となっている。そのため、よくやひろの家へ食事を作りに行っている。
一葉とは小さい頃からの親友で、その間柄から彼女に怒られることも多い。
煮物が得意でよく作り置きをしている。記憶力が優れており昔の出来事などをよく覚えている。
依媛 奈緒(よりひめ なお)
声:木村あやか
身長:163cm 血液型:AB 誕生日:10月7日
悠達が遊びに来たときはいつも面倒を見てくれていた、一つ年上の近所のお姉さん。悠のことは「はるちゃん」と呼ぶ。
昔と同じように悠達を気にかけてくれる。学校へ登校の際も、同じ方向へ行くために一緒に登校をしている。
水泳部に所属しているが、プールサイドで読書をしていることが多い。料理、裁縫など家事は上手。自宅に居るのが苦手で、外をウロウロしている。
渚 一葉(みぎわ かずは)
声:五行なずな
身長:164cm 血液型:A 誕生日:8月3日
悠のクラスメート。地元代議士の一人娘。ややきつめの顔立ちの美少女。才色兼備で清楚なお嬢様だが、実際は短気。亮平や瑛が相手のときは手が出ることも多い。負けず嫌いの意地っ張り。
ヴィオラのレッスンを受けており、上手に演奏することができるが、聴くのは両親を除くと瑛とネコだけである。
乃木坂 初佳(のぎさか もとか)
声:遠野そよぎ
身長:160cm 血液型:O 誕生日:12月23日
渚家のメイド。短大卒業間際の就職活動に失敗し実家でぶらぶらしていたところ、親の友達である渚家の家政婦である多々良(たたら)さんの誘いで二年前から渚家で働いているが、本人がメイド服は恥ずかしがっている。
要領が悪く、落ち着きも足りない。目の前のことしか考えられず、空回りして失敗することも多い。渚家の秘書である月見山(やまなし)にはよく小言を言われる。大人ぶった態度を取りたいのだが、いつも失敗する。
よく合コンに参加するが、敗北続き。酒癖が悪く、人によく絡む。
両親と同居し、家事はまかせっきりのせいか、まるでだめ。
春日野 穹(かすがの そら)
声:白波遥
身長:152cm 血液型:O 誕生日:2月5日
悠とは双子の兄妹で、口数が少なく無気力で引きこもり。悠達とクラスは別である。
幼少期から病気がちで入退院を繰り返す。そのため悠とは体格差がある。しかし勉強は悠よりも格段にできる。
悠の前では意見を言えなく、そっぽを向いてしまうことがある。
ネット依存症。食べ物の好き嫌いが多く、カップラーメン以外のジャンクフードを好む。
倉永 梢(くらなが こずえ)
声:春奈有美→姫川あいり(体調不良による降板・変更)
身長:158cm 血液型:A 誕生日:6月1日
クラスの学級委員長で、そのことから愛称は「委員長」。
責任感が強く真面目で面倒見がよい。からかわれると可愛い一面も見せる。
田舎暮らしのため都会的な物に憧れる。
伊福部 やひろ(いふくべ やひろ)
声:一色ヒカル
身長:165cm 血液型:B 誕生日:1月10日
近所にある駄菓子屋の店主。身寄りのない瑛の保護者でもある。キツイ系の美人で口が悪い。初佳とは小さい頃から短大まで学校が同じ。今でも一緒に飲むことが多い。
手間がかかることを苦手とし、店番を度々、瑛に押し付ける。店の商品を食べることも。
一流企業に勤めるほどエリートであったが、複雑な人間関係により故郷に帰り、祖母の店であった駄菓子屋を継ぐ。
中里 亮平(なかざと りょうへい)
声:後野祭
身長:175cm 血液型:B 誕生日:9月25日
悠たちのクラスメート。一つ年上だが、留年している。学校以外では甚平を着ている。あごヒゲがトレードマーク。
軽い発言やセクハラトークが多いため、奈緒や一葉、委員長からツッコミを受けたり無視されたりとひどい目に遭うことが多い。また穹のことをよく誘ったりするが、大抵は返り討ちにあう。しかし皆を先導してくれる良い兄的存在でもある。
瑛と一緒に居ると'Wあきら'と言われる(亮という字が「あきら」と読めるから)

2009年01月28日

和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り

和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年(1615年)3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇、豊臣家の移封を要求する。

4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。
キンキ ツバター 夜の足音 きこう シーメー ミーンズ シャーク ニュピ 新秋柿 チャー インス 線香花火 オーピ スチーマー トレッチ ふくいく リバティプ リトミック ターメ スピーカー ノーシャ パラフィン ルコウソウ パルサー ギニョー ホウセン フォー ウォー でらいと ケット おおわ ハック バンクス レンテン ナンバー ゆうな トロイ パルテ フェースオ ゼラチン シャク ステレオ アーム マウンド ミゼラブル マインド スイング じょうめ メタリック 浦島太郎

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は5万5千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。 なおこの頃、織田有楽斎は豊臣家に見切りを付けて、大坂城を退去している。

樫井の戦い
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い(樫井の戦い)討死してしまう。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。

道明寺・誉田合戦
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら2万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも壊滅、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦、激戦の末に討死した。

豊臣方は意地を見せたが、大勢は幕府方優勢で、いよいよ大坂城近郊に追い詰められる。

天王寺・岡山合戦

夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)拡大5月7日、最後の決戦のため豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置く。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。豊臣方の真田信繁・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。城内に総退却した。

終局
本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。

翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で自害した[26]。

冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は、この夏の陣においては豊臣恩顧の大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされている(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論が起こることはなかった。むしろ徳川家の家臣において、敵将に対する騎士道的賞賛が盛んに行われた)。

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が絵師を集めて描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず
と、その悲惨さが語られている。

2009年01月20日

コンドリーザ・ライス

コンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice、愛称:コンディ、Condi、米国務長官、1954年11月14日 - )は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者。アメリカ合衆国国務長官(第66代)。

ジョージ・W・ブッシュ大統領のもとで国家安全保障問題担当大統領補佐官(第20代)や国務長官を歴任。政治学の博士号をもち、元スタンフォード大学教授。シェブロン元取締役[1]。

2004年11月にブッシュは国務長官としてコリン・パウエルの後任にライスを指名した。2005年1月26日に上院は賛成85対反対13で彼女の指名を承認し、彼女は同日宣誓した。アフリカ系アメリカ人の女性としては初の国務長官(アフリカ系アメリカ人としてはコリン・パウエルに続くふたり目、女性としてはマデレーン・オルブライトに続くふたり目)である。またブッシュ大統領の第一期目ではアフリカ系アメリカ人および女性として初の国家安全保障担当大統領補佐官を務めており、『フォーブス』2005年版「世界最強の女性」では1位になっている。

「ブラウン訴訟」において人種別公立学校を違憲とした画期的な最高裁判決が下された1954年、アラバマ州バーミングハムで、ジョン・ウェズレー・ライスJrとアンジェレーナ・ライス夫妻の一人娘として生まれた。父親はウェストミンスター長老教会の牧師で、母親は音楽教師であった。名前はイタリア語の音楽用語「コン・ドルチェッツア con dolcezza」(甘美に柔らかく演奏する)に由来する。

コロンビア大学ジャーナリズム大学院学部長のニコラス・レーマンが書いた記事:「バーミンハムには保険業で成功した一組の黒人家族、ギャストン一家がいた。それに続いて支配していたのはアルマ・パウエルの一家だった。アルマの父親と伯父は町にある二つの黒人高校の校長であった。ライスの父親、ジョン・ウェズレー・ライスジュニアは高校のガイダンス・カウンセラーとしてアルマ・パウエルの伯父のために働き、週末に説教を行う牧師であった。ライスの母親アンジェレーナは教師だった」[2](アルマ・パウエルはコリン・パウエルの妻)。

8歳だった1963年9月15日、友人のデニース・マクネーアが白人優越論者による16番街聖ヨハネ教会での爆弾テロで死亡した。両親は常々、教育が人種差別に対する最高の防御になると教えた。ライスはあるスピーチで「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」[3]と語っている。ライスは「成功するには人の二倍努力しなければならない」とも語っている[4]。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

1967年に父親がデンバー大学の学部長補佐となり、一家はデンバーに転居した。

高等教育?音楽から国際政治学へ
アスペン・ミュージック・キャンプでピアノを学んだ後に、ライスは15歳でデンバー大学に入学した。彼女の父親は同大学で副学部長を務め、「The Black Experience in America」クラスを教えた[5]。彼女はコンサートピアニストになるクラスで学んだが、元国務長官マデレーン・オルブライトの父親ジョセフ・コーベルの国際政治入門クラスに参加し、ソ連や国際関係への興味を持つこととなった。ライスはコーベルを「私の人生で最も重要な人物のうちの一人」と語った。

ライスは1974年に19歳でデンバー大学から政治学士号を優等で得、1975年にはノートルダム大学から修士号を得た。彼女は1977年から国務省に勤務し、カーター政権下で教育文化省のインターンとなった。1981年にはデンバー大学で政治博士号を得る。彼女は英語に加えてロシア語、チェコ語、フランス語、スペイン語を話すことができる。

学問の世界へ
1981年よりスタンフォード大学助教授。87年に準教授に昇進。在野時代より既に東欧史・軍事史の分野でも声望を得ており、クラウゼヴィッツ戦略学の世界的権威ピーター・パレットのまとめた論文集[6]にもその論文が掲載されている。