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2009年04月 アーカイブ

2009年04月06日

ジャネット・ジャクソン

ジャネット・ジャクソン(Janet Damita Jo Jackson, 1966年5月16日 - )は、1980年代以降に商業的に大成功を収めたアメリカ合衆国のアフリカン・アメリカンのシンガーソングライター、女優。兄の一人はマイケル・ジャクソン。安室奈美恵、AI、Crystal Kay、DOUBLEなど日本のR&Bアーティストにも大きな影響を与えている。日本での愛称はジャネット、ジャネジャク。

出生・幼少期 [編集]
ジャネットはアメリカ合衆国インディアナ州の町・ゲーリーでジョセフ・ジャクソンとキャサリン・ジャクソンの娘として生まれる。彼女の生まれたジャクソン一家は有名で、マイケル・ジャクソンを含むジャクソン・ファイヴのメンバーは実兄である。9人兄弟の末子。太りやすい体質であり少女時代は「ロバ」とからかわれていた。

7歳から演技の舞台に立ち、アメリカのテレビドラマを中心にまずまずの活躍をする。

1980年代 [編集]
兄弟とのデュエット曲やバックボーカルとしてのキャリアはあったものの、本格的にシンガーソングライターの道を歩み始めたのは1982年、彼女が16歳のときである。A&Mレコードからファーストアルバムとなる『ヤング・ラブ』をリリースするが、商業的には不発であった。しかしそのアルバムからシングルカットされた楽曲「ヤング・ラブ(Young Love)」と「ギブ・ユア・ラブ・トゥ・ミー(Come Give Your Love To Me)」がヒット。前者はR&Bチャートの6位に届いた。続いてリリースされた「セイ・ユー・ドゥ(Say You Do)」もまた15位と健闘した。

1984年、セカンドアルバムとなる『ドリーム・ストリート』を発表。兄のマーロン(Marlon)から提供された、これまでよりもファンキーでアップテンポな楽曲でその音楽性に進展が見られたものの、商業的には不成功に終わった。

同年、歌手ジェイムズ・デバージ(James Debarge)と結婚したが、わずかな期間で離婚。

1年後の1985年、日本企業とのタイアップで日本でのみ発売するための楽曲「Start Anew」を収録している。

ジャネットは次期アルバム制作のため、ジミー・ジャムとテリー・ルイスの下へ。1986年、これにより完成したサードアルバム『コントロール』を発表。ポップスチャートとR&Bチャートで1位を獲得。アルバム収録曲全9曲のうち6曲までもがシングルカットされ、そのうち5曲はポップスチャートで連続して5位以内に入った。中でも最もヒットしたのが「あなたを想うとき(When I Think Of You)」で、ビルボードシングルチャートにて初の1位を獲得。これ以後彼女の知名度は飛躍的に高まった。本人が「実質的な、私のファーストアルバム」と語っている位、思い入れの強いアルバムである。実際にコンサート等では、このアルバム以前の曲は一切演奏されない。また1996年に発売されたベストアルバム『デザイン・オブ・ア・ディケイド / グレイテスト・ヒッツ』(decade = 10年間)でも1986年より前は無視されている。

以来20年にわたってジャム&ルイスとのタッグは続き、他のプロデューサーと楽曲を制作することは少なかった。

次のアルバムとなる『リズム・ネイション 1814』がリリースされたのは1989年になってである。人種差別・性差別やホームレス、薬物などなどの政治問題を積極的に取り入れた本作品はポップスとR&Bのチャートで1位を獲得した。

表題曲「リズム・ネイション(Rhythm Nation)」のビデオ・クリップは兄マイケルの影響が見られるものの、完成度の高いダンスで構成され、彼女のスタイルを確立するとともに、音楽シーンに多大な影響を与えた。ライブでは激しいダンスのため、リップシンクでパフォーマンスされることが多い。この曲は日本航空でジャネット本人が出演するテレビCMにも使用された。

1990年の初来日公演では、東京ドームでの最高観客動員を記録した。これにより、Rhythm Nation Tourでは2度の来日公演(5月と11月)が実現した。

1990年代 [編集]
1993年のアルバム『ジャネット(janet.)』からヴァージン・レコードに移籍。シングル『それが愛というものだから(That's The Way Love Goes)』が自身最高のビルボード8週連続1位を記録。このアルバムではセクシーな表現が一層目立つようになり、マドンナと比較されることがある。同年『ポエティック・ジャスティス/愛するということ』(2パックと共演)で映画初出演。ゴールデンラズベリー賞最低新人俳優賞受賞。

兄マイケルとの仲の良さは有名で、1993年に少年への性的虐待疑惑でメディアが過熱した際は、無実を祈ってワールドツアー(janet. World Tour)のステージ上で黙祷を捧げた。

1995年にはマイケルとのデュエット曲「スクリーム(Scream)」を発表。この曲はマイケルのアルバムに収録されたにもかかわらず、ジャム&ルイスなどジャネット側の制作陣が手がけ、人気・実力ともに兄を逆転したと言われた。

1997年、アルバム『ザ・ヴェルヴェット・ロープ(The Velvet Rope)』を発表。これ以降は姓を略した「JANET」名義で作品をリリースする場合がある。同性愛やSMやドメスティック・バイオレンスなど様々なテーマを取り上げ、セールス的には前作『ジャネット(janet.)』を下回ったものの、ファンの間では評価の高い作品となった。

1999年、長年にわたるボーイフレンドのレネ・エリゾンドと密かに結婚、そして離婚していたことを公表しファンを驚かせた。

2000年代 [編集]
2000年、エディ・マーフィー主演映画『ナッティー・プロフェッサー2』のヒロイン役で成功を収めた。その主題歌「ダズント・リアリー・マター(Doesn't Really Matter)」もヒット(島谷ひとみのヒット曲「パピヨン〜papillon〜」の原曲)。日本のオリコンでは、自身最大のヒットシングルとなり、同年のオリコン洋楽シングルチャートの年間1位を記録した。

2001年のアルバム『オール・フォー・ユー』は過去の作品に比べるとポップな内容が受け、日本では80万枚を超える自身最大のヒットとなった。

2004年2月、国民的ショーである第38回スーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びる。当初はハプニングを装っていたが、意図的な演出だったことを告白。生中継したテレビ局が罰金処分を受けたり、直後のグラミー賞やアカデミー賞の中継でハプニング防止策が取られるなど波紋は大きかった。

同年3月発表されたアルバム『ダミタ・ジョー』は、これまで以上に性的表現が目立っている。事件の影響からか、『コントロール』以降では初めて商業的に失敗した作品となった。

2006年初頭には体重が増え、次のアルバムは大丈夫かと不安がる人もいたが、4ヶ月で27キロ減らし55キロまで体重を落とし、6月5日に米国で発売された雑誌「US Weekly」ではそのダイエットの詳細を掲載した。なお体重増は映画出演のための役作りであったとされるが、結局映画出演は立ち消えになったため真相は不明。

同年9月、アルバム『20 Y.O.』(トゥエンティ・イヤーズ・オールド)を発売。ジャム&ルイスとの共同制作が20年を迎える記念碑的作品となった。過去のヒット曲のテイストを織り込んで制作したとされるが、恋人である著名プロデューサーのジャーメイン・デュプリの参加によりジャム&ルイス色が薄らぎ、旧来のファンからはあまり高い評価を受けなかった。前作の失敗からの復活を目指す作品でもあったが、セールス面では前作を大きく下回る結果となった。

2007年、ヴァージン・レコードとの契約を更新せず、同じくヴァージンを去ったジャーメイン・デュプリを追いかける形でアイランド・レコード(ユニヴァーサル・ミュージック・グループ)に移籍した。

2007年10月に米国で公開された映画『Why Did I Get Married?』に主役級で出演している。

2008年2月、アルバム『Discipline(ディシプリン)』を発売。『コントロール』以降で初めてジャム&ルイスが参加しておらず、またジャネット自身は作詞・作曲に一切関わっていない異例なスタイルで制作された。ビルボードHOT200では『オール・フォー・ユー』以来の1位を獲得したものの、セールスの減少は止められなかった。1stシングル『Feedback』はビルボードHOT100で最高19位。しかし、他のシングルカットはビルボードHOT100にランクインせず。

レーベルが数ヶ月でプロモーションを放棄したことをジャネットは非難し、わずか1年・1作品のみでアイランドとの契約を終えたことが9月に明らかになった。新しい所属レーベルは決まっていない。
2008年9・10月に7年ぶりのツアー『Rock Witchu Tour』を米国とカナダのみで開催。評価は高かったものの規模が小さく商業的には不振に終わっている。また体調不良により幾つかの公演をキャンセルした。2009年2月に日本でも5公演が予定されたものの、1月下旬に「金融危機の影響」として延期を発表した。

全米No.1獲得曲 [編集]
アメリカ「ビルボード」誌に準拠。

ビルボード HOT100チャート [編集]
When I Think Of You (1986年、2週連続)
Miss You Much (1989年、4週連続)
Escapade (1990年、3週連続)
Black Cat (1990年)
Love Will Never Do (Without You) (1991年)
That's The Way Love Goes (1993年、8週連続)
Again (1993年、2週連続)
Together Again (1998年、2週連続)
Doesn't Really Matter (2000年、3週連続)
All For You (2001年、7週連続)

ビルボード R&Bチャート [編集]
What Have You Done For Me Lately (1986年)
Nasty (1986年)
Control (1987年)
Let's Wait A While (1987年)
Diamond (Herb Alpert featuring Janet Jackson、1987年)
Pleasure Plinciple (1987年)
Miss You Much (1989年)
Rhythm Nation (1990年)
Escapade (1990年)
The Best Things In Life Are Free (Luther Vandross & Janet Jackson、1992年)
That's The Way Love Goes (1993年)
Any Time,Any Place (1994年)
I Get Lonely (1998年)
What's It Gonna Be?! (Busta Rhymes featuring Janet Jackson、1999年)
All For You (2001年)
Call On Me (2006年)

アルバム [編集]

オリジナルアルバム [編集]
ヤング・ラブ - Janet Jackson (1982年)
ドリーム・ストリート - Dream Street (1984年)
コントロール - Control (1986年)
リズム・ネイション 1814 - Janet Jackson's Rhythm Nation 1814 (1989年)
ジャネット - janet. (1993年)
ザ・ベルベット・ロープ - The Velvet Rope (1997年)
オール・フォー・ユー - All For You (2001年)
ダミタ・ジョー - Damita Jo (2004年)
トゥエンティ・イヤーズ・オールド - 20 Y.O. (2006年)
ディシプリン - Discipline(2008年)

その他のアルバム [編集]
モア・コントロール - Control: The Remixes (1987年、リミックスアルバム)
ジャネット・リミキシッド - janet. Remixed (1994年、リミックスアルバム)
デザイン・オブ・ア・ディケイド/グレイテスト・ヒッツ - Design Of A Decade (1996年、ベストアルバム)

ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル

2009年04月24日

マーロン・ブランドとレッド・パワー運動

ハリウッド俳優のマーロン・ブランドは、AIM創設当時からこれを支援し、金銭的にも政治的にも援助したアメリカ人の一人である。ブランドは高額な映画出演報酬を要求することで有名だったが、これをインディアン権利団体の運営資金に提供することも多かった。また、「フィッシュ・イン抗議行動」など、様々な抗議運動でも行動をともにした。

最も影響が大きかったのは、1972年の「マーロン・ブランドのアカデミー賞辞退事件」であろう。これは出演した映画『ゴッドファーザー』でのアカデミー主演男優賞の授賞式に、「インディアン女性」を代理出席させ、インディアン問題に絡めた抗議声明をさせたというものである。ハリウッドでの、白人がでたらめなインディアンを演じてきたことを皮肉った「ニセモノにはニセモノを」とのブランドの思惑で、フィリピン系の女性がこの「インディアン女性」の役を演じた。ハリウッド界は大騒ぎとなり、これ以後、すでに減少していたハリウッド映画の「西部劇」から単純な悪役としてのインディアンは姿を消すことになり、事実上「西部劇」というジャンルを壊滅させてしまった。

「ブライアン対イタスカ郡」裁判
このレッドパワーの高まりの中で起こった「ブライアン対イタスカ郡(Bryan v. Itasca County)」と呼ばれる法廷闘争は、以後のインディアンの権利に関して画期的な法的判断を引き出したことで歴史的評価を受けている。

1971年、ミネソタのリーチ保留地に住むオジブワ族のブライアン兄弟は、火災で家を無くしたため、移動型の住居を購入したが、間もなくイタスカ郡は彼らの住居に資産税として147.95ドルを請求した。しかしブライアン兄弟は、この住居が自治権を持ったインディアン保留地内にあることから納税の義務がないことを主張。これを受けて郡はミネソタ最高裁判所にブライアン兄弟の主張の無効を訴え、ブライアン兄弟側は保留地を挙げて控訴した。やがてこの件は合衆国最高裁判所に上告された。

1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。

ニクソン政権とレッド・パワー運動
リチャード・ニクソンは、こうしたインディアン達の権利回復要求交渉に対し、まともに耳を傾け取り組んだ、それまでに例を見ない大統領だった。「レッド・パワー運動」とニクソン大統領とは切り離して語れない。ニクソンは1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めている。ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で失脚したことは、世評はどうあれ「インディアンという民族」にとっては大きな痛手だった。

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1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。

この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。

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